「苦しみを受けた神のしもべ」
マタイ27:15〜26
今朝の説教より
「苦しみを受けた神のしもべ」 マタイ27:15〜26
イザヤ書第53章は、主の僕と呼ばれる人物が苦しみを受けて死んだことを記します。この僕は病にかかり苦しみ、人々から軽蔑され見捨てられて死ぬのです。人々は、僕がそのような苦しみにあう原因に、僕が犯した罪があると見ていました。
ところがどういう訳か、人々はこの僕が苦しみを受けた原因は自分達の罪の為であったと認識し始めます(53:5)。これまではそうとも知らず、自分達こそ神に背き続けてきた。この自分達の罪を、主の僕が人知れず代わりに負い切った、というのです。
神さまは、イエスさまをこの僕の実現とし、多くの者の罪を償う神の小羊として十字架へと明け渡してくださいました(使徒言行録8:32 p.239)。人間の理屈では、罪なき者が代わりに犠牲になるなど、道理に合いません。犠牲を繰り返すことがあってはなりません。ただ、命を得て自分が生きるためこれまで犠牲が支払われてきたのも現実としてあります。
解決し難いわたくしたちの問題の責任を、神さまは負い切ってくださいます。神さまは、神の独り子を犠牲として明け渡すことをもって、わたくしたちの罪の問題の地平へと降り立ってくださった。それが、イエスさまが十字架につけられ処刑される、という出来事でありました。今や、罪からの救いを成し遂げたこの神の思いをわたくしたちが知り、命を得ることを、神さまは求めておられるのです。
