開かれた天の国



 今朝の説教より(3/22) 

「開ひらかれた天てんの国くに」マタイ23:1〜21

天てんの国くに(神かみの国くに)は、死しを越こえて私わたしを支配しはいする神かみのご支配しはいです。天てんの国くには、イエスさまにおいてやって来きました。復活ふっかつのイエスさまによって、弟子でしたちをはじめ人々ひとびとの前まえへと、差さし出だされて来きたのです。

一方いっぽう、律法学者りっぽうがくしゃやファリサイ派はの人々ひとびとには基準きじゅんがあります。自分じぶんの基準きじゅんに従したがい、自分じぶんや相手あいてが天てんの国くににふさわしいかどうか判断はんだんします。つまりは、自分じぶんが基準きじゅんになってしまい、自分じぶんが神かみになってしまいます。そうやって、自分じぶんが設もうけた基準きじゅんを手放てばなせないでいるうちは、神かみさまを私わたしの主しゅとすることにはなりません。設もうけた基準きじゅんにかなうかどうか、自分じぶんが主しゅとなって判はん断だんするからです。

イエスさまは律法学者りっぽうがくしゃやファリサイ派はの人々ひとびとを指さして言いいます。天てんの国くにに「自分じぶんが入はいらないばかりか、入はいろうとする人ひとをも入はいらせない」。これでは自分じぶんの思おもいに囚とらわれたままです。そしてその自分じぶんには、自分じぶんを救すくう力ちからなどないのです。

この囚とらわれから救すくい出だすために、イエスさまは身みの代金しろきんとしてご自身じしんの命いのちを十字架じゅうじかで献ささげてくださいました。命いのちをかけて、天てんの国くにをわたくしたちのために開ひらいてくださったのです。ここに、イエスさまの喜よろこびがあります。ですから何なんとしても、自分じぶんの思おもいやこだわりや基準きじゅんを手放てばなして、イエスさまへと自みずからを明あけ渡わたして行ゆきたいのです。そして自分じぶんの思おもいを手放てばなせたとき、自分じぶんへと天てんの国くにが開ひらかれ、この身みを迎むかえてくれた天てんの父ちちを、わたくしたちも知しるのです。