「いったい、この方はどなたなのだろう」

 


今朝の説教より(
2/15) 

いったい、このかたはどなたなのだろうマルコ4:35〜41尾張一宮教会 矢部節牧師

わたしたちは、信仰しんこう信仰しんこうみみ信仰しんこうこころかみへとけていないと、本当ほんとうには、しゅイエス・キリストに出会であうことはできません。しゅイエスはかみくに福音ふくいんしめすために、たとえをもちいてはなされ、また、わざによって、しめしておられました。

しゅイエスは弟子でしたちにふねすようにとめいじると、ねむってしまわれます。伝道でんどうつかれをいやすためでもあったでしょうが、かみにすべてをゆだねて安心あんしんしてやすんでおられるのです。

ところが、はげしい突風とっぷうによって、ふねなみをかぶり、水浸みずびたしになり、弟子でしたちは、たすけをもとめて、しゅイエスをこします。しゅイエスは、かぜみずうみしずめると、「まだしんじないのか」といます。弟子でしたちは、「いったい、このかたはどなたなのだろう」といます。

しゅイエスと一緒いっしょふねっている弟子でしたちは、しゅイエスがともにいながらも、しゅイエスが本当ほんとうすくぬしであることが、「まだ」わかからないのです。

それは、しゅイエスがともにいてくださっていながら、このわたしのすくぬしであることをしんれていなかったからです。しゅイエスは、それでも、こころからしんじるものとなるようにと、ねばづよく、御言葉みことばつたえ、わざおこないながら、わたしたちをつみからすくうために、十字架じゅうじかへとあゆまれました。