「すべてのものを造られた方」
今朝の説教より(2/1)
使徒言行録14:8〜18
「すべてのものを造られた方」
リストラの人々は、生まれつき足の悪かった男をパウロが癒すのを見て、バルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んで、二人にいけにえを献げようとします。人々が目にしたのは、自分達が崇める神々が生き写しとして現れた出来事だったのです。
わたくしたちも想い想いに、神のようなものを作り出してしまいます。まことの神さまをこれに当てはめようとします。自分が思い描く神の姿へと、生けるまことの神さまを引き寄せようとするのです。
それはまるで我田引水のようであり、神さまを自家薬籠中の物とすることです。聖書の神さまを自己流に解釈し、自分が考える愛を神さまに押し付けてしまいます。自分の思いが先立ってしまい的を外すなら、神さまを悲しませることになります。
そのわたくしたちを、自分の思いの囚われから解き放ち、まことに生ける神へと立ち帰らせるため、イエスさまは十字架を担われました。ご自身を身代わりの犠牲としてささげることで、わたくしたちに生けるまことの神を示してくださったのです。ですからさらに親しく交わりにあずからせていただき、この神がどなたであるのか深めて知りたいのです。
このため、信仰告白の学びが重要となります。示された神を信じ告白する中で、神さまをより深く知ることとなります。神さまが与える命を生きるため、一歩踏み出して信じることが重要となるのです。