「聖書と神の力を知る」

 

今朝の説教より(1/25)

聖書せいしょかみちからマタイ22:23〜33

サドカイひとたちは、かれらが正典せいてんとする創世記そうせいきしゅつエジプト、レビ民数みんすう申命記しんめいき復活ふっかつおしえがないとして、「復活ふっかつはない」と主張しゅちょうします。これにたいイエスさまは、このひとたちが「聖書せいしょかみちかららないから、おもちがいをしている」といいます。

わたくしたちは、イエスさまのようには聖書せいしょらずかみさまのことをすべらないのに、「どうせかみはこんなものだ」、と見損みそこないます。せっかく、かみさまがこのわたしへとわれた言葉ことばがあるのに、それをらず、のがし、おもちがいしているのであればもったいないものです。わたしつくったかたわたしかすために、びかけるこえがあるのです。そのこえいてこそ、わたくしたちも、真実しんじつきることができるのです。

天地てんちつくぬしであるかみさまは、十字架じゅうじかなれたイエスさまを復活ふっかつさせてくださいました。ここに、つくぬしとしてのこえひびかせてくださり、かみちからをおしめしくださいました。いま復活ふっかつのイエスさまが、わたくしたちのきるをもぬをもなかにおき、聖霊せいれいによって死者ししゃなかから復活ふっかつさせ、永遠えいえんいのちがせてくださるのです。

イエスさまはサドカイたいし、「わたしはアブラハムのかみ、イサクのかみ、ヤコブのかみである」とげたしゅつエジプト(3:6)言葉ことばを、復活ふっかつ証拠しょうことしてげます。アブラハムもイサクもヤコブもとおむかしじんぶつです。イエスさまは、ご自身じしんらずその復活ふっかつらされなかったものたちのたいしても勝利しょうり復活ふっかつさせるご意志いしをここにしめされたのです。